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中京元応援団長の質問に、

 投稿者:白堊博物館長 星  投稿日:2009年11月12日(木)01時42分1秒
   お答えが遅れて申し訳ありません。我が校の応援活動は、私の記録に大正12年の「賀陽宮殿下」
来校の折野球台覧のときの応援風景の写真があり、応援団として組織されたのは大正10~12年の
間と思われます。その当時は校歌のほかに現在の第一、第二応援歌があったようです(現在は第
九応援歌まで)。全国の高校で創立の古い校名と創立については資料がありません。文献、HP
などもこちらでは把握していません。
 白堊応援団については辛くも伝統を引き継いで脈々と現在まで同じスタイル(バンカラ)を
継承しています。
 
 

応援団の歴史について

 投稿者:中京元応援団長  投稿日:2009年11月 3日(火)21時41分39秒
  突然、掲示板に失礼します。

私は愛知県の中京大中京の元応援団長です。
高校の応援団の歴史を調べ中にヤフーの検索ページからこの掲示板に入りました。

もし差し障りなければご教授ください。
①盛岡一高の応援団創立は何年頃でしょうか?
②全国の高校で創立の古い応援団(明治、大正初期)の校名と創立が分かれば教えてください。
③②の内容が調べられる文献、HPなどをご存知でしたら教えていただけないでしょうか。

以上よろしくお願いいたします。
ちなみに中京大中京は中京商業として大正12年に創立。
野球部も同時に創立されましたが、戦前の応援団については不明で現在調査中です。
戦後は昭和26年に野球部が甲子園出場と同時に応援団も発足しています。
ただ、残念ながら昭和60年頃に応援団は解散となり現在は野球部が引き継いでいます。
 

変貌する応援

 投稿者:白堊博物館長 星  投稿日:2009年10月18日(日)12時08分33秒
   男性が半数程度になってきた現在では、在校生のみの応援ではもう往年の迫力は出ないだろう。応援風景の画像を見ても周りの應援旗のほうがにぎやかである。現状のすたるがいつまで続くか分からないが、そろそろ変わり目が近づているかもしれない。勉強に力を入れていかないと中高一貫校にセンタースクールの地位を脅かされる恐れがある。  

応援50年 第11報(甲子園あと一勝の記録)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 9月17日(木)23時37分23秒
編集済
  甲子園出場へ94年の歴史で21回のチャンス9勝12敗、敗退にも栄光の伝統が引き継がれる。
1)大正5年東北北海道地区決勝(第二回大会豊中球場)盛岡中 1:4 一関中
    久慈次郎捕手を擁する盛岡中学に初勝利の一関中は全国大会へ、緒戦に前年優勝の京都二中(現・京都県立鳥羽高校)に3対2で勝利して2回戦進出。
2)大正14年東北地区決勝(第11回大会)盛岡中 0:11 仙台二中
3)昭和2年東北地区決勝(第13回大会)盛岡中 0:1 (延長13回)福岡中
    福岡中学(現・岩手県立福岡高校)は戸来誠ー村田栄三、2回戦 4:1で 桐生中学(現・群馬県立桐生高校)に快勝、準々決勝で高松商業(現・香川県立徳島商業高)に延長12回 0:1 で惜敗したが、9回裏ノーアウト三塁のピンチを「満塁策」で凌ぎ、「日本野球界最初の満塁策」として讃えられている。 高松商は全国優勝。
4)昭和10年 第21回大会 盛岡中  1:7  秋田商業
5)昭和14年 第25回大会 盛岡中  7:8 青森中
6)昭和21年 第28回大会 盛岡中  2:3  一関中
7)昭和26年 第33回大会 盛岡一高 0:1 (延長24回) 青森高校(熱戦は前回紹介)
8)昭和50年 第57回大会 盛岡一高 0:2  盛岡商
     林寿郎-金野健の名バッテリー 杉田監督のもとに春秋連戦連勝している
  10:0 一関一高(5回コールド勝) 6:4 花北商 5:2 専修大北上
  準決勝 10:0 一関商工 (6回コールド勝)で 決勝進出、
  盛岡商 000 000 020
  盛岡一 000 000 000 盛商滝川は卒後プロへ、林金野は東京六大学で大活躍
9)昭和61年 第68回大会
  8:2 専大北上 7:4 広田水産 7:6 水沢 2:0 花巻北 3:2 盛岡商
  一関商工 011 000 030
    盛岡一    003 100 000   高橋直人-村田忍・川村祥平監督決勝で惜敗
10) 平成5年 第75回
  11:1 浄法寺(5回コールド勝)4:0 東和 3:2 大船渡 8:2 一関一
  準決勝 9:0 花北商(7回コールド勝)
  久慈商 010 001 028
  盛岡一 000 003 000 (八角有紀-沼崎光祥 名匠 杉田監督)
      卒業後、八角投手は岩手医科大学エースとして全国大会で活躍
11)平成21年 第92回決勝 盛岡一対花巻東 1:2
 

応援50年 (第10報) 新たなる旅立ち 選抜21世紀枠へ第一歩

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 8月28日(金)12時56分48秒
編集済
  第62回秋季東北地区高等学校野球岩手県大会盛岡地区代表決定戦第一試合
8月28日
 盛岡農  0 0 0  0 0 0  0 0 0  計 0              H 6 E 2
 盛岡一高  4 0 1  0 0 0  0 0 X     5               11   0
      完封快勝   投 小野寺健太 1年(城西中)No10
                   捕 十良澤健二  1年(城西中)No.2


新年度応援委員・木村拓団長初登場、雨中に在校生応援団・和太鼓・校旗・応援旗が舞って県営球場を圧倒する。明日の白亜祭(一高文化祭)の準備のためか、在校生は少数精鋭であったが蛮声が頼もしかった。OB・球親会(父母会)も大声援。新人戦初勝利、あと一勝で県大会進出へ

歴代の応援団長(平成年間)
平成元年度 大森健一 (H2卒)
  2   中屋重明 (H3卒)
  3   細矢文仁 (H4卒)
  4   関 慶久  (H5卒)
  5   藤原 亮  (H6卒)
  6   竹内嘉次郎(H7卒)
  7   鵜飼雅之 (H8卒)
  8   加藤久二之(H9卒)
  9   藤井良史 (H10卒)
 10   遠藤大輔 (H11卒)
 11   小野寺正幸(H12卒)
 12   佐々木太一(H13卒)
 13   三上金徳 (H14卒)
 14   吉田宗平 (H15卒)
 15   小野寺隆文 (H16卒)
 16   柳 雅俊   (H17卒)
 17   田口雄亮   (H18卒)
 18   松本誠宏   (H19卒)
 19   小野寺 浩 (H20卒)
  20   柳田秦太 (H21卒)
 21   佐々木凌 (H22卒予定)
 22   木村 拓 (2年生)
 

応援50年第9報 岩手県野球界の歴史・花巻東 3度目の準決勝進出 盛岡中以来90年目

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 8月21日(金)14時55分58秒
編集済
  大正5(1916)東北北海道地区決勝
 (投) 小川・(捕)久慈次郎・(一)深草・(二)下山・(三)大坊・(遊)久保田・(左)菊地・(中)照井・(右)吉田 ・(控)深澤省三他 明治35年以来不敗であったが惜敗
 久慈次郎捕手は全国中等学校野球大会・甲子園に出場していない
 盛岡中 100 000 000
 一関中 300 001 00X
一関中は第2回全国大会緒戦で前回優勝の京都二中に勝利して2回戦へ。第一回準優勝の秋田中は欠場

第3回全国大会(大正6年1917)
緒戦    盛岡中対香川商     5:1
準々決勝  盛岡中 000 020 000 2
      慶応普通000 000 001 1 前年優勝の慶応を破る
準決勝   盛岡中 000 000 000 0
      関西中 000 000 00X 1 関西中は全国優勝
        1回表のホームスライディングをアウトと判定した審判団は全てが慶応OB、
       盛岡中に不利、惜しくも一点差で準決勝敗退
この日、岩手出身の平民宰相・原敬総理大臣が関東北初の首相、初めて白河の関を越えた。

第5回全国大会(大正8年1919)
        盛岡中対同志社中 4:3
        盛岡中対松山商  1:0
        準決勝 盛岡中対神戸一中 0:8

・・・・・・・・そして90年目の今年は第91回甲子園大会
    長崎日大・横浜隼人・東北仙台・大分明豊を連覇し、8月23日(日)準決勝進出・花巻東が岩手県勢3度目の白河関越えのチャンス
 

応援50年 第8報 黄金期の名選手の汗と涙・名監督・名物教師

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 8月 3日(月)22時18分14秒
編集済
  歴代の監督は、盛岡中時代はスタンドコーチと呼ばれ、久慈次郎(T6卒)、獅子内謹一郎(M36卒)ら(早稲田大学で大活躍したOB)が日頃の練習を一緒に、自校ベンチ近くから作戦指揮を采配したという。瀬川正三郎(S6-8年度)先生等、部長は体育教師が務めた。
やがて大会では「ユニホーム着用の選手と補欠、監督・責任教師(部長)1名に限り競技者席に着席すること」と厳しく規定された。
第一期黄金期 監督   浅沼康一(S26-27) 岡本賢四郎(S28-30) 佐藤優(S31-33)
              部長先生 千田玄(S28-30、S32-37) 松島真蔵(S31)
            千田先生は名物、松島先生は国体全国優勝の盛商から転任
            女鹿-本野・大窪バッテリーの活躍で2年連続優勝
第2期        監督   関行雄(S41-42) 榊貞助(S43)
       部長先生 遠藤弘(S41-47)
            関監督は大会直前逝去され(S43/7/6)選手は自主練習、
            榊監督代行で甲子園快勝ベスト8 小笠原・駒木・三浦・・

第3期    監督   杉田清彦(S46-52、H4-6,H19ー)森雄一(S53-55)
       部長先生 小山卓也(S50-54)
            杉田監督は好チームを率い連勝、林・金野はあと一歩、
            森監督が引き継ぎ甲子園へ
 

応援50年第7報(挫折と伝統の再興)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 8月 2日(日)00時13分0秒
編集済
  昭和26年奥羽大会決勝24回青森高に1:0で甲子園三年連続出場を逃した時の藤沢栄投手は1年生、期待されたが27年には極端な部員不足、梅雨の長雨でグランド練習不可能で緒戦敗退が続き、部費不足により廃部の危機かと生徒会の話題になった。
伝統を絶やさずと先輩達が結束し、千田玄部長先生、瀬川正三郎サンコ先生同窓会長の激励もあり再出発、28年には藤沢投手(三年)の好投で岩手県大会2年ぶりに優勝したが、奥羽大会準決勝で宿敵秋田高に敗れる。そして昭和20年代の黄金期前夜から、S30女鹿恵教投手が1年エースとして登場しS31-32の第一期黄金時代に開花結晶するのである。
創生期以来幾度の一高激動期を支えたのは現役生達をバックアップした、教師部長・強力な先輩コーチ(森雄一26盛高OB="第3期黄金期S53の監督"、関行雄S12・榊貞助S23盛中OB="第2期黄金期S43の監督"をはじめ盛中・盛高OB連は、当時毎日のようにコーチ役を務めたという・・)の応援・援助の賜でもあろう。新制高校としての校風・校歌・応援歌について生徒会で討議した時代でもあったという。
 

応援50年第6報 (薩長とライバル秋田を倒した90年前、白河越えへあと一歩の大正時代から昭和へ)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月30日(木)19時57分4秒
編集済
  第一回全国中等学校優勝野球大会決勝(大正4年)
 愛知二中 000 000 000 001
 秋田中    000 000 000 000 延長12回愛知二中全国優勝(地方大会76校)
第一回東北予選は7月開催とひそかに発表、秋田球場には仙台中も盛岡中も、半日以上の汽車連絡では間に合わず、結局、不戦敗。とくに常勝・東北の王者・盛岡中は、大阪朝日・阪神(愛知)・関東(水戸)には脅威だったのでわざわざ秋田を選んだのか(私の新説?陰謀説)
秋田は、「奥羽越列藩同盟」が「徳川幕府・会津との義理人情」で団結したのに卑怯にも脱藩し、官軍側に寝返っている。宣戦布告せず奇襲した日清・日露・パールハーバーにも匹敵する策略か。盛岡中が出れば全国優勝できたのに、薩長に騙された。慚愧に耐えない。
大正5年一関中が愛知二中(前年優勝校)に勝利している。
大正6年には東北北海道地区で秋田中を撃破リベンジ、第3回全国大会初出場で盛岡中が香川商・慶応(前年優勝校)を破り、準決勝進出している(大阪鳴尾球場)。
その年、岩手出身の原敬総理大臣が白河の関を越えて、大正昭和初期は3人の首相と多数の陸軍海軍大臣を産出して政界は岩手の時代となった。

昭和の一高黄金期の話題に飛躍すると
昭和31年は女鹿恵教-本野剛志主将のバッテリーで第一期黄金時代第一年度、
岩手大会は6試合完投で初優勝した。当時は大天地・中天地は初応援・毎試合、盛岡市営球場に通う。リヤカーで運んだ「福チャン看板」が応援席に陣取って球場を圧倒していた。
 黒沢尻工000 000 300 R 3
 盛岡一  150 001 01X   8 決勝でも快勝・岩手県大会初優勝
奥羽大会は、7回目の甲子園チャンスであったが、前夜の騒動(地元秋田ファンが旅館に投石?)のためか女鹿投手睡眠不足・不調で、惜しくも横手高に7:4で緒戦敗退、秋田高が甲子園に出場している。(真偽は当時の応援委員の証言)
さらに大会直前の本野主将の入院引退は痛手だった。(応援委員と皆で校庭で見送ったあの日の涙)
しかし翌年も発憤し、後輩の大窪明捕手との新バッテリーが見事、華を開くことになる
「岩手の櫻は岩を割って咲く。こぶしの花は北さ向かう(壬生義士傳より)」
 岩手の「やませ(オホーツクからの東北風)」は冷害飢饉だが、奥羽山脈を越えて加湿加温の「こちかぜ(東風)」として伝わり、秋田では日本一の米豊作となる。
東北勢は好敵手ライバルとして切磋琢磨、「白河以北一山百文」と差別されながらも、切歯扼腕・臥薪嘗胆・特有の粘りの伝統で郷土愛を育んできている。
 

応援50年第5報(全国中学球界の三傑と畏敬された明治の盛中野球部)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月29日(水)07時29分57秒
編集済
  自称「語り部」OBが登場すると、「戊申戦役」や「旅順陥落」「敵中横断三百里」のように得々として尽きることがない。
泰Q氏等疾風会連の記憶も貴重な記録である。紙面の続く限り・・・語り明かしたい
「岩手はベースボール初輸入の地である」(明治9年日本初試合説/1876岩手種馬場所長(東北農試)が渡米しボールバットを持参した)
 (熱球I岩手の高校野球のあゆみ昭和55年より)
「明治36年の盛中野球部歌に”勲を立てて19年”とあるので増嶋文次郎先生が初代部長で明治17年に初試合初勝利ということになる。盛岡中は明治13年創立」
「岩手は野球王国であり、殊にその中心をなしたるものは盛岡中学である。
東海の愛知一中・関東の水戸中と共に中等学校野球界の三傑と呼ばれている」
 (白亜熱球譜・盛岡一高野球部創設百年氏史・H11発行より引用)
ベースボールは明治27年に第一高等学校名二塁手中馬庚氏により野球と命名されている。、盛岡中は、東北地区の遠征試合でも連勝常勝負け知らずで明治大正へ引き継ぐ。
 

伝説の名投手・藤沢栄、そして新たな伝説

 投稿者:S42・佐藤(泰)  投稿日:2009年 7月28日(火)10時41分20秒
   この昭和26年奥羽大会決勝・延長24回を投げきったのが藤沢栄投手で、私が小学生
のころは伝説の名投手として語り継がれていました。

 やがてこの伝説は女鹿投手に引き継がれるわけですね。私は女鹿投手をつぶさに見て
おりますが、多くの60歳以下の人にとっては伝説の人でしょう。岩手県大会2年連続
優勝の偉業。

 今年の菊池達朗投手も白堊野球史上伝説となって語り継がれるでしょう。あの菊池
雄星を向こうに回して一歩も引かない投球、あっぱれ、感動の6試合・52回1/3。
唸ってしまいました。
 

応援風景50年(第4報 第一期黄金前夜)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月28日(火)06時16分43秒
編集済
  昭和26年奥羽大会決勝(三年連続優勝ならず青森高が甲子園へ)
青森高校 000 000 000 000 000 000 000 001 試合時間4時間6分
盛岡一高  000 000 000 000 000 000 000 000

盛岡高はS26年 盛岡一(上田校舎)・二(白梅校舎)・三(盛岡商)に分かれ、高松高は盛岡工業となった。
その翌年、盛商はS27国体全国優勝し東北北海道初の白河の関越えの快挙、それ以来今まで関東以北の国体優勝は記録されていない?。
盛岡中学野球部は明治32年創設 大正6・8・10・15・昭和8・甲子園5回出場している。
準決勝2回+準々決勝1回=5勝5敗
新制6・3・3・4制で昭和23年県立盛岡一高・昭和24-25年盛岡高・S26より盛岡一高となり現在に至る。盛岡商は昭和26当時は盛岡第三と呼ばれ、仙台国体のラジオ実況では「盛岡三高全国優勝!」と報道された。昭和38年創立の盛岡三高は黄金馬場のサッカーラグビー跡に建てられている
 

応援風景50年(第3報 盛高よいとこ猛者の出所)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月27日(月)23時40分37秒
編集済
  昭和24年奥羽大会決勝 甲子園6回目
  黒沢尻高 000 002 000 2
  盛岡高  100 000 20X 3
昭和25年奥羽大会決勝 甲子園7回目
 本荘高 000 001 000 1
 盛岡高  301 010 00X 5
第六応援歌は甲子園連続出場時からで今年も謳われている。
 そのころ、弁当持参で「盛鉄球場」に通い、隣のお兄さん達の応援を聴いた小学生時の思い出がある・・
「なぜイチコーでなくてモリコーなの?」と言う疑問は、その後「ウラーイチコー」はロシア語だという説明と共に、新入生応援歌練習で教わり、ようやく納得したのであった。
スクラムを組み体を揺らし謳い、チャンスに「・・必死になってどんとゆくぞー」を繰り返し、得点するとそのままのスクラムで「ああゆかいなり愉快也、アアユカイナリユカイナリ、ああゆかいなりゆかいなり、嗚呼愉快なりユカイナリー」・・・・球場を圧倒するこの怒濤の蛮声で、選手は鼓舞され、応援團は最高潮に盛り上がる。
  緒戦敗退で応援が下火になり数年間の低迷期が続いたとき、「ユカイナリ」も「凱歌」も「おかわりこい」も知らずに卒業していった在校生、後輩達も居たのは慚愧である。先輩として教えきれなかった、できればもう一度球場に足を運んでほしい、そうすれば きっと一高応援の感激が実体験でき、各人の人生の指針になるであろうと信じている。
 

応援風景50年(第2報 応援旗の変遷)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月26日(日)19時39分13秒
編集済
  校歌・応援歌(第一-第九)・凱歌・学生歌(鉄壁白亜城)の蛮声と和太鼓・応援旗を中心とした応援は、明治・大正・昭和の旧制盛岡中・新制盛岡高そして平成の現在まで一高応援団として引き継がれている。応援旗の歴史
第一期(S26・S28・S31・S32県大会優勝4回)新制高校創設黄金時代
「大天地達が振り方を開発したが、でかくて腕がしびれた」と大天地本人が証言している「大応援旗時代」、
第2期(S41秋優勝・S43夏岩手県優勝甲子園ベスト8)
 振りやすくなり内外野に在校生とOB応援旗が舞った
 昭和43年カラーテレビで和太鼓と共に全国高校生の模範とされた「多数応援旗時代」
第三期(S49秋優勝・S53夏県大会優勝・甲子園通算9回目)
 応援旗はM旗と称され、各応援委員が多数のM旗を持つ「マスコミ型M旗時代」。
 昭和40-50年代は外野席OBも大挙して、旧応援旗を振って「頑張れ後輩」の垂れ幕で内外野と対称に、盛岡三高OB ・福岡高OB・花巻北OB も左右翼に陣取っての大声援「サンキュウ先輩」のエールは見事であった。そしてOBが在校生よりも多いこともあった。昭和53年のテレビマスコミ報道も高校生らしい礼儀正しい応援と大好評であったが、大会本部は和太鼓を試合当日突然禁止とした。
やがて、岩手県野連は外野席応援を禁じ、一カ所だけの応援団体に限るとして「外野席OB旗自粛時代」の平成の現在に至る。
船山団長をはじめOBの連名で毎年、毎回県庁・県野連本部・朝日に抗議申請している。
しかし中天地は特にマークされ、毎回試合前に必ず退場させられている。それでも、体はなくても中天地の心は千の風になって居る。外野席のバックスクリーン芝生が指定席で50年間、皆出席で声援してきている。
 

応援風景50年(第1報 硬式野球部応援風景の変遷その1)

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月25日(土)07時49分45秒
編集済
   大天地活躍の頃は第一期黄金時代、2年連続岩手県大会優勝の頃は、自主応援で強制されなかったし、応援団長は交互に応援委員が交代していたが、マナーも礼儀正しく高校生応援の模範とされていた。、大天地の(隠れ)ファンの私(中天地)は現役時代は応援旗を振ることはなかったが、卒業後もその余韻で、昭和34年以来、春夏秋の三季、盛鉄球場・市営球場・県立球場に通い続け、第二期黄金期S43/第三期黄金期S53 に続いて半世紀で200試合以上観戦したことになる。ドクターなので船山賢一団長(S20卒)と二人で高校生が体調を崩したときに往診・対応することもあった。
応援旗がM旗と命名されたのは第2期黄金時代前後、代々の応援団長がM旗を引き継いで来たのですが、そのM旗が昨日酔ったOB?が内野席で暴れ、対応している内に行方不明になってしまいました。当日は20旗以上のM旗が集合したので区別できなくなったのです。「甲子園の想い出のM旗・各歴代応援団長引継のM旗」、一つひとつに汗と涙と歓喜がこもっているオンリーワンのM旗です。捜しています。中天地が今預かっているのは、Mの文字のところで斜めに切れているので縁起が悪いので修繕して秋の新人戦までにお渡しします。
 

時の移り変わり

 投稿者:大天地  投稿日:2009年 7月25日(土)07時33分46秒
編集済
   私が訪れた時の應援團は我々のころの雰囲気が感じられ伝統を受け継いで
いるようだったが女子の應援團が居たのには驚いた。女子生徒の増加は時の
流れであり、元気に応援してくれるのは結構なことだ。男子諸君がそれ以上
に頑張ってくれることだろう。
 女子の旗振りを養成するのも時代の流れかもしれない。30年代の女子の先
輩には、運動部でいつもズボンにはだしで手ぬぐいを下げたバンカラな人達
が居た。
 OBも一体となって応援するのが一高の行き方であればそれもよし。在校生
を盛りたててやるようなやり方なら歓迎である。一度OB間で話し合うのもい
いのではないだろうか。
 いずれにせよ野球部が強くなれば一高應援團も強くなるであろう。
  最後に、一関一高応援団幹部OBの貴重な体験談と激励のお言葉に感謝しま
す。
 

お疲れ様でした

 投稿者:平成12年卒 吉田  投稿日:2009年 7月25日(土)02時04分10秒
    菊池達郎君。いやあ、いい投手でした。春の東北覇者盛大附属に投げ勝ち、春の選抜準優勝の花巻東それも超高校級の菊池雄星相手に一点差の試合に持ち込んだのですから。
 是非甲子園で見たかった。

  応援もよかったと思います。ここぞという場面での一発来い(オカワリ)景気づけの第六応援歌、先制しての愉快なり。アクセントの鉄拳エール。
 我々の頃とは多少違う用法をしていた応援もありましたが、試合展開、生徒のノリに合わせた応援は素晴らしかった。
 ど迫力の応援ではありませんでしたが勝つごとに声も出るようになり、来年以降が楽しみになりました。
 女の子の方が元気でガクッとする場面もありましたが・・・。こう言っては女子の方に失礼ですけれどもやっぱりバンカラって男の野太い声、だみ声でやるのが元々の形ですから。
  (半数が女子だからやっぱ無理があるよなあ。まず男もしっかりせい。女子のほうがよっぽど戦力だったぞ)

  試合は六回までは本当にいい雰囲気で、勝てると思いました。でも一点差で勝ってるだけにかえってプレッシャーがあったのかな。

 試合終了時は悔しくて言葉がありませんでした。

 ところで前回の投稿で旗は振らないと宣言したのですが、舌の根も乾かぬ内に試合中にも振りまくってしまいました。
 今日は現役との仕切りがなくなっており(決勝だから客の入りを見越してか?)応援団顧問の先生からも内野席外野側スタンド上段なら思う存分振って下さい。と言われたからです。
 多少隅っこに追いやられた感もありましたが、M旗20本で振れたのは非常に気持ちよかったです。苦情はありませんでした。

 そして声は潰れました。

 他校の応援団経験者の方からの投稿がありますね。内容を見るとひょっとすると我々以上に一高の応援に思い入れがおありなのかもしれません。
 外から見てそういう評価をしていただけるというのは正直に言って嬉しいです。現役生には他校からも見られているとの自覚を持ち、鍛錬を積んで、よりよい応援を築き上げてくれることを願っています。
 来年こそは更にパワーアップして甲子園で校歌を!
 

選手および應援團に感謝

 投稿者:白堊博物館長 星  投稿日:2009年 7月25日(土)00時53分19秒
編集済
   「元久慈高校応援団参謀長」氏の遠方からの声援ありがとう。
 応えることはできなかったが、先制点を取り相手校の心胆を寒からしめた健闘をた
たえたいと思う。
 応援のほうも連日の勝利で次第に伝統の迫力あるいわゆる一高應援團の迫力が出
てきたであろう。有望なバッテリーが控えているということなのでまた次も期待し
よう。
 OB應援團の方々も連日の球場通いがよいお疲れさんでした。
 

大健闘・応援団も最高潮・捲土重来を期す

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2009年 7月24日(金)23時55分16秒
  一高   0 0 0  1 0 0  0 0 0  R 1  H 4  E 2  振13
花巻東 0 0 0  0 0 2  0 0 X    2    6    1   6

4回の攻撃あと一押し。毎回の猛攻撃に耐え忍び、最後までチャンスが続いた。
7回の2ミスで崩壊しなかったのはさすが一高の粘り、
今後に期待する
  選手も在校生もOBも元気に声が出ていた。
船山団長は毎回の球場通いに、点滴を受けながらも矍鑠として体調を維持されていた。
先輩から後輩へ、次世代の新人戦・21世紀枠推薦に絶えることなく新しい伝統が芽生えている。
 

悲願の甲子園へ!!

 投稿者:元久慈高校応援団参謀長  投稿日:2009年 7月24日(金)13時47分52秒
  岩手より遥か遠く釧路の地にまで盛岡一高決勝進出の知らせが入ったのが昨日。
ちょうど今頃県営球場では激戦の火ぶたが斬って落とされたことと思う。
それがしも現役時代はバケツの水を被りつつ怒号を張り上げたものだが、
岩手最古の歴史を持つ一高応援団に圧倒された思い出がある。
今こそ、貴校の校歌にある「其処奮闘之活舞台」たる甲子園を目指し、
天下の一高を世に知らしめるべく戦ってもらいたい。
そして、大甲子園にあの校歌を轟かせてほしいと思う。
健闘を心より祈る!!
 

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