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2戦目逆転突破

 投稿者:白堊應援團 30 星  投稿日:2010年 7月20日(火)22時11分22秒
   今度は見事な逆転突破。一高らしい勝ち方だ。  
 

初戦突破は見事な大量得点

 投稿者:白堊應援團 30 星  投稿日:2010年 7月19日(月)18時28分54秒
   これで應援にも熱が入ることだろう、應援の主体となる在校生の集まりが良くなる
ことは間違いない。次の試合が楽しみだ。
 

岩手県営球場に集合・OBも健在

 投稿者:外野席応援OB副團長・中天地メール  投稿日:2010年 7月18日(日)15時58分14秒
編集済
  宮古北 000 00
盛岡一 070 7x

及川(3年)の好投・無四球7三振ノーエラー完全試合。2桁安打で14盗塁、一高生らしく元気が良かった。控・代打の18番(3年)もヒットでホームイン、全員野球、応援団も見事で木村祐応援委員長以下3名の和太鼓・応援歌も今年も130年の伝統を引き継いでいる。
「盛岡一高応援風景は高校野球の模範。無形文化財・人間国宝・世界遺産に推薦する」と中天地は本気で信じている。
 

吉田君、気にするな

 投稿者:白堊應援團 30 星  投稿日:2010年 7月18日(日)11時12分52秒
編集済
   同じ白堊健児じゃないか、お互い勘違いも間違いもある。
かく言う小生も。後輩達のやり方に批判的な物言いをしたこと
もあるが、結局年長者は冷静に見守りながら、必要ならばサポ
ートしていくのがいいと思う。
 さて、いよいよ我らが後輩の出番が来た。野球も應援も張り
切っていこうではないか。
 

(無題)

 投稿者:平成12年卒 吉田  投稿日:2010年 7月16日(金)21時06分39秒
  星さん、寛大なお言葉に恐縮しきりです。

すぐにのこのこ出てくるのもはばかられたましたので一週間ほど待ちました。

確かに十年前は文句も言われず、その後写真も届けていただきました。
その節はありがとうございました。

読み返しましても、星さんの投稿は感じたことを仰っているだけで
私共が批難されているのではありませんでした。
年長者に比べ若輩者は打たれ弱く、すぐに攻撃されたと勘違いするようです。

その辺りも含めてお詫びしたしだいです。

旗振りに関してですがHPを見るに昭和20年代までと星さんたち以後の30年代では違うようですね。
映像で見た40年代はスローなテンポでまた違いました。
50年代に入ると我々の頃と同じ速度で振り方も大差なく、マイナーチェンジを
繰り返しながら現在に至っています。

大別すると

1、大正末期~昭和30年代初頭(アップテンポ)

2、昭和30年代(星さんたち以後 アップテンポ)

3、昭和40年代(スローテンポ)

4、昭和50年代~現在(30年代と40年代の中間のテンポ)

以上の四期に分かれると推測されます。盛中時代から昭和20年代は不明なところが多いのでこの辺が分かれば大体は把握できるのではないでしょうか。

それから岩手県の高校野球ですが雨で一日順延。
一高の初戦は
7月18日(日)第三試合 14時開始予定 於:県営球場になりました。
対戦相手は宮古北高校です。選手応援団共に精一杯頑張って欲しいものです。

以上にて失礼します。
 

一高もこの掲示板も自由に言える場だ

 投稿者:白堊應援團 30 星  投稿日:2010年 7月10日(土)19時32分52秒
   後輩諸君、酒の上での少々の失言など気にすることはない。感じたことを話し合ってこそ物事は良くなるはずだ。年寄りは極端な物言いする傾向があるから「おがしねじゃ」と感ずるかもしれない。そこで「応援委員会室」で語り合おうじゃないか。
 昭和30年代に比べ、現在ではあたかも違う国じゃないかと思うぐらい生活も文化も変わってきたように思う。その中で汚い格好の応援委員に象徴されるいわゆる「バンカラ」應援團の伝統を繋いでいくのは大変なことだ。女性の比率も多くなりどうしても「きたない」のは敬遠されがちとも聞いたこともある。自然体とは普通の学生服で(洗濯しなけりゃ汚れるが)通学し、放課後に旗振りの練習して応援の時は「まんつ、俺たちが旗振るから協力してけろ」というようなことである。質実剛健とは質素でたくましい生き方と思っている。
 吉田君、訪問した折りのことを気に入らないとは思っていないし言ってもいませんよ。面食らっただけで、その証拠に後日諸君の旗振りの写真を届けた(確か女性の應援委員にだったと思う)。それに、先輩にきちっと挨拶することは決して悪いことではない。
 川上、山田、村上が言う私の武勇伝は話半分ですよ。当時は現在では考えられないようなことが平気でやれた時代だし、それでも盛岡中学末期に比べれば児戯に等しい。
 歴代應援委員だけの白堊会ができたら面白いだろうなあ。旗の振りくらべなんぞやったらいい記念になるかもしれない。
 

(無題)

 投稿者:H16卒 小野寺隆文メール  投稿日:2010年 7月 8日(木)20時45分2秒
  星さん


まずはご返信賜れましたこと御礼申し上げます。
こういったお話・歴史を伺う機会を得られたことも
偏に私自身盛岡一高生であったからこそ、
また盛岡一高応援団であったからこそでございます。

やはり時代の趨勢がある中で、星さんのような考えを
持たれているOBもいらっしゃれば、応援団発足当時や
昭和の隆盛時代を肌で感じることができなかった
私のような考えも持つ人間もおりますこと、
ご理解いただけましたら幸甚です。

星さん始め諸先輩方に誤解を与えるような文章力の
無さを嘆くばかりです。

あくまでも、私が申したかったことは、「経験と貫禄と
迫力で手本を見せていた」人間が(私も含め)昨今少ない、
ということに尽きます。その流れの中で、校歌が
必ずしも未来と過去を繋いでおらず、先輩方が活動の
中で気付かれてきた「当たり前」が伝えられていない
ように感じておりました。

もし伝える側にその責任があったとするならば、
私個人としましては、まずは現状把握から始め、
各位それぞれにとって当たり前であった、伝統・
心・精神性を再確認、共有し、未来に伝えていきたい。

このように考えております。

この一点です。


「良いものが残っていく伝統」
良い伝統であるはずの一高応援が消えかかっていると
いうことは、極論一高バンカラ応援の否定に繋がりは
しないでしょうか。

「守っていく伝統」
これは一高には似つかわしくないと思います。現役には
応援に限らず全てのことに、攻めの姿勢で向かって
いって頂きたい。

一高応援団が無くなっていくのは寂しい。
無くなるなら兎も角、飼い殺しはもっと寂しい。


今、現役でない自分に出来ることは何か。それを
考えたときに、上記の「現状把握から始め、それぞれに
とって当たり前だった、伝統・心・精神性を伝えていきたい」
という見地に行き着いた次第です。

以上が一高OB、応援団OBである私としての自己満足溢れん
責任の果たし方でございます。

下記、本件に関し私の感じたことを纏めました。
やはり熱い思いを持っていると、語っても語りつくせぬ
ものですね。
近年、日常でこれほど感情的に長文を書いた記憶はございません。

【私見】
・リーダーである以上、自覚・責任感をもつべき
・「直立不動で上級生の命令を聞くと言う縦関係」は一高には不要
・一方、「人間として」上下問わず敬意をもって接するべき (親しき仲にも礼儀あり)
・卒業生の過干渉は不要
・基本的に現役が望むならば自発性の下、バンカラ応援はなくなっても良い
・総じて自主性が無い人間が多くなってきている印象。自主性を持たないことも
 自由であるというご認識であれば、これ以上本件に言及はいたしません

【質問】
・自然体でリラックスしたバンカラ應援とは如何なるものであったか

【新発見】
・「人手が足りないのでやってくれと1級上の人に声をかけられ2年生から應援委員となった」

好き勝手に物を申し、大変失礼いたしました。
一方で、こういった、先輩とも話し合える関係がございますのも、
自由を重んじ、自主性を教えてくれた盛岡第一高校があったから
こそだと感じております。



                          以上

                      H16卒 小野寺
 

皆様にお詫び申しあげます

 投稿者:平成12年卒 吉田  投稿日:2010年 7月 8日(木)18時26分55秒
  星先輩。
小野寺君。
そしてこの掲示板をご覧になった全ての方にお詫び申しあげます。
昨日の私の書き込みについてです。読み返してとんでもない無礼をはたらいていたことに気付きました。
それは酒を飲んで書き込んだことです。
真面目に議論しているところに茶化しているととられても仕方のない記述もありました。
不快に思った方もいらっしゃるでしょう。
その時は真面目に書き込んでいるつもりでした。
しかし、ここは不特定多数の方が閲覧する掲示板です。自分の家ではありません。
配慮に欠けていました。
投稿には続くとしましたが取りやめます。
しばらく頭を冷やして出直します。

今一度、書き込みをご覧になった全ての皆様。
本当に申し訳ありませんでした。
 

(無題)

 投稿者:H16卒 小野寺隆文  投稿日:2010年 7月 8日(木)04時49分55秒
  各位

本件、私の至らぬ点がございましたこと御詫び申し上げます。
まず、私に伝統・自由といった概念・経験をインターネット上で
先輩各位へ伝える能力が欠けております点。また、このような実際に
顔を合わせニュアンスを含め心行くまで語り合うことが
できない場だと知っておりながら、一石投じさせて頂いた点に
配慮の不足がございました。

時代時代によって私も含め各位見地に差異がありますことを
認識した上で、先輩方のお話も伺いたいと思っております。

このような場でお誘いをするのは失礼かと存じますが、
皆様、是非世代を超えて、応援団を語り合いませんか。
皆様と飲みに行きたく!

PS 後日、星さんのコメントへの返答はさせていただきます。
  平成12年卒 吉田さん、個人的には本件の吉田さんの
  見解を示して頂きたく存じますが、やはり書かない方が
  良い気もいたします。私が吉田さんであれば、星さんに
  直接連絡し、現状・憂慮されている点を御伝えします。

小野寺
 

我が校応援団について

 投稿者:平成12年卒 吉田  投稿日:2010年 7月 7日(水)21時51分14秒
  星先輩の仰る事はごもっともだと思います。
盛岡一高には盛岡一高の自由な校風がながれているべきです。

そして小野寺君の言いたいことは「明治のような六大学風の規律をつくるべし」ということではないと思います。
先輩から受け継いだ伝統(ここで伝統とは何かを語ることはしません。長くなってしまいますから。漠然と解釈してください)を出来うる限り伝えたいという思いだと解釈しました。
もちろんそれがOBの過干渉だと言われればそれまでです。そしてその通りでしょう。
私も過干渉のOBの一人でしょう。ちょくちょく話をしにいって持論を聞かせたりしましたから。

今少々酔っ払っているのですがお二人の意見を受けて熱くなってきました。
私も参加させて下さい。
これから私がしようとしていること。それは本質の部分の話です。今までは現役が自らの意思でバンカラスタイルを選択していることに配慮し公の場で踏み込む事は避けていましたが言わせていただきます。本当にこれを喋っていいのか迷いもありますがいつか現役も直面するはずなのでこの機会に。小野寺君の問題意識とはまた違います。

なくなるならなくなるでいいと星さんは仰いますが、そうであるならばとっくになくなっています。私が一高に入学したのは平成九年。今から十三年も前ですが、そのときには既にバンカラ応援も自由な校風とやらもなくなっていました。
いや、これは私一人の感想なので「なくなっているように感じた」と訂正させていただきます。

それはどういうことか。

入学してからの流れから説明します。まず汚い格好の応援委員があいさつ回りと称して気合をかけにきました。
そのときの団長が「先生は入学を認めたが我々はまだ君達を一高生とは認めていない」旨の発言。そして勉強、クラブ活動の大切さなどを説いて一度去っていきました。

みんな驚愕しました。高校ってのは恐ろしいところだと。高校生ともなると先生の認めたことでも自分たちで認めないと許さないのだと。なにより教師と伍してものを考えているところに唖然としました。大人に見えました。

それから応援歌練習です。今はCDを一年生に配って覚えさせているようですが、我々の時は上級生の発する声を聞いて音程をおぼえるしかありませんでした。
廻ってくる三年生にびびりながら必死で覚えました。
一週間でもその気になれば意外と覚えられる!

最終日 「よくやった!」の声と共に上級生に認められた喜び。本当に嬉しかったですね。
これで晴れて一高生だと胸を張って言えるお墨付きをもらったのですから。
他にも必死になってやればできる、認められると自分で自分の力を認識できた発見がありました。一高生になったんだとの誇りも芽生え始めました。

そして一年生の各クラスで運動会のM門造り。昔は杉で作っていたようですが、当時は段ボールを千切って大きな千切り絵のようなモザイクの門を作りました。
(「モザイクと聞いてアダルトビデオでも作るのか!?まさか?」とドキドキしたのもアホですがいい思い出です。同期の応援委員にも同じ事を考えていた奴がいました(笑))
作業は覚えたての応援歌、雑歌(女学生、山賊のうたなど)を叫びながらしました。

この作業は二年生の指導有志が監督して行われました。文字通り応援歌練習を円滑に進める為に一年生に分かりやすく指導してくれる有志で兄貴のような存在でした。

このまま五月十三日即ち運動会を迎えます。

ここまでは多少システムの違いはあれど星さんの頃と大筋では変わらないと思います。
では何が違っているか違ってしまったのか?

続きます。


蛇足
文中の10年ほど前に訪れた際の応援委員とは私達の代のことです。
良く覚えております。我々の頃は川上先生、山田先生、教員ではありませんが百二十周年の映像を撮る関係で村上さんなど同期の方と接触がありましたから後で星さんの武勇伝もお聞きしました。

確かこちらが何も言わずとも靴を脱いで屋上にいらしたと記憶しております。
「さすが先輩は分かってるなあ」と思ったのが第一印象でした。
旗振りに関しても然り。星さんの現役当時は今の1.5倍の旗を振っていたとか、実際に披露して頂きましたね。あれを見て現在の形は星さんたちの発展形であると確認できました。要は体が正面だけ向いて振るか、180度体を回しながら振るかの違いなんですよ。船山先生まで遡るとまた違いますけれども。
あのときの挨拶は近い先輩に習ったもので、ああするのが正しいのだと信じておりました。別に六大学風との意識はありませんで一高式だと思い込んでいたもので悪しからず。
しかし、それが気に入らないとなると星先輩もやはり干渉するOBになってしまうのではないでしょうか?私は一言言うべきは言って構わないという立場です。
OBが何を言ったところで実行できるのは現役だけであり、応援の歴史には彼らが取捨選択判断したことしか残らないからです。現にそのように動いてきているのですから。
いつかの一高生がそういう挨拶を教育したとしてもそれは自由意志に因るところであって、それが続くことを良く思わないと仰るなら「後輩の活動に一言申す!」これに当たると考えます。揚げ足取りではないはずです。生意気で申し訳ありません。

申し訳ついでですが明日は五時から仕事なもので一旦失礼します。お待ち頂けるならまた明日。
 

白堊應援考

 投稿者:白堊應援團 30 星  投稿日:2010年 7月 6日(火)20時24分12秒
編集済
   そもそも白堊の應援は大正11-12年頃に発祥し、以来いわゆるバンカラ應援(当時はどこの学校でもやっていた)を継承し、戦後の白堊・白梅・商業3校合同(解消)を経て男女共学となった昭和20年代から昭和30年代に隆盛を極め、以後は経済発展や社会の変化に対応しながら、歴代の應援團は伝統の継承に努めたと理解している。
 昭和20~30年代は、戦後の物資がなく家庭も貧しい時代で、質実剛健・弊衣破帽がごく当たり前の生活だったので全校生徒がバンカラであった点を特筆すべきであろう。加うるに小生のような粗野で乱暴(よく言えば豪快?)な者が多かったことも幸いした。学校(教師)も教育委員会もコントロールに手が回らなかったとも言える。
 ひとつ言えることは、当時は先輩の干渉はなく(現役優先)。上級生は、1年生が應援歌練習が終われば一人前の一高生として認め、やたら規律や礼儀とか先輩風を吹かせることもなく、経験と貫禄と迫力で見本を見せていた。当時の伝統はバンカラと共に自由と自主性を重んじていたように思う。我々は人手が足りないのでやってくれと1級上の人に声をかけられ2年生から應援委員となった。
 平成10年頃、白堊三四会の教員が母校に居たので、訪問ついでに屋上の應援團を訪ねた折りに、いわゆる大学や他の高校の応援団のようなやたら堅苦しい挨拶や応対に面食らった記憶がある。それとM旗が妙に小さくなっていたことであった。
 時代の変化によって伝統も変わるのが常だが、自然体でリラックスしたバンカラ應援はむずかくなっているのだろうか。無理してボロ服を着なくても普段の格好で質素で堅実な生活をしながら、運動なり應援團(当時は生徒会の應援委員会という位置づけ)をするのもバンカラといえる。また、直立不動で上級生の命令を聞くと言う縦関係が必要なら他の普通の学校の封建的体育会体質で、我々の頃にはあった自由で平等な白堊の気風にはなじまないと感じている。また、卒業生の過干渉も不要、それでなくなるような伝統ならそれまでのこと、時代の流れであろう。
 

下記書き込みに関し

 投稿者:H16卒 小野寺隆文メール  投稿日:2010年 7月 4日(日)23時10分3秒
  オス。H16卒小野寺です。

下記、昨日コメントいたしました件、内容に誤りが
ございましたことお詫び申し上げます。残念ながら
岩手では放送されていなかったようです。
ご興味ある方いらっしゃいましたら、DVDに撮りましたので
メールにて御連絡頂けましたら幸いです。可能な限り
郵送いたします。
また、本DVDを現役の後輩達にも見てもらいたく
郵送する予定です。

感想としましては、現在の明治高校の応援団の方が、
一高応援団の目指す姿に近いところにいるように
感じました。
人間としての基礎を身に着けようとする姿勢、
また回りのサポート・土台がしっかりしていることに
感銘を受けた次第です。

昨今、一高のみならず、大学の話を聞いても、規律を
重んじない風潮が蔓延していると聞きます。

挨拶をする。呼ばれたら走っていく。相手の経験の深さを
尊敬する。こういった基礎が崩壊しつつあるのは、偏に
教育を怠ってきたことに起因するのではないでしょうか。
(私も多分に後輩達を教育しきれなかった部分があると
反省しております。)
加えて、現状、背中で語る人間が絶対的に少なくなって
きている状況もございます。手本が手本たりえる
組織づくりが必要な時期だと個人的には感じております。

先輩方から見ると私も基礎・規律に対し甘さがある人間の
内のひとりかと存じますが、「言われなくても分かるだろう」
「わからなければなぜ聞かない」で済ますのではなく、この
大切な伝統・心・精神性を伝えていくべく、OB同士で話し合い
理解しあい、現役の人間とも話し合い、、縦の繋がりを
紡いでいきたく。


私に出来ることから少しずつ始めていこうと、恥かしながら、
明治応援団の活動を見て、思わされました。

小野寺
 

昨今のバンカラ応援に関し

 投稿者:H16卒 小野寺隆文  投稿日:2010年 7月 3日(土)18時45分15秒
  ご無沙汰しております。H16卒小野寺と申します。応援団長をやっておりました。
幾人の方が明日までにこの投稿を読まれるか不安でもありますが、
バンカラ応援に関する番組がありますので、御連絡いたしたく。

日時 : 7/4 14:00~
局  : フジテレビ(フジテレビ系列めんこい 他)
番組名: ザ・ノンフィクション 青春YELL花の中学生応援団(完結編)
HP  : http://tv.so-net.ne.jp/schedule/101056201007041400.action
内容 : 明治中学・高校の応援団の話。5年前 本応援団に入団した中学生2名の
     成長を描くシリーズ2回目。
     1回目は下積みとしての彼らの成長について。今回の完結編は
     彼らが幹部となり時代の潮流と戦っている現在を映したもの。

後輩へ  :バンカラがどういうものか知る良い機会です。
      これを見て少しでも感じてもらえることがあれば幸せです。
      古い、流行遅れだ、と感じる人もいるでしょう。
      ただ、バンカラという精神性から来る普遍のもの、その
      新しさもあるのだと知ってもらいたい。
            小手先を見ず、友達だから全力で応援してやりたい、
      という相手を思う気持ちを大切にしてください。

諸先輩方へ:現在現役の彼らの感じるバンカラの難しさ、時代の流れを
      感じ取っていただきたく。個人的に、応援団をはじめとする
      若者の現在・未来は、我々OBが残してきた過去・結果であると
      考えます。責められるべきはその精神をしっかりと受け
      継がなかった我々かもしれません。
      まず、現状把握から共に始めましょう。感じ取れ!ではなく
      伝えるところから、やりなおすべきだと考えます。

多分に失礼なことも申し上げましたが、私にできることがあれば
お手伝いさせていただきたく。

なお、苦情は謹んでお受けいたします。是非語り合いましょう。

以上、乱文にて失礼致しました。


H16 小野寺
 

有難うございます

 投稿者:中京元応援団長  投稿日:2010年 5月 5日(水)15時09分9秒
  八重樫(S51)さま

>超亀レスですが...
とんでもない! お心遣いに感謝いたします。

この春の甲子園も岩手には中京が立ち塞がることになりましたが、
お世辞抜きで力の差はなくなりましたね。
東北の地に全国制覇の旗が行くのも遠くはないと思っています。
 

盛岡中学応援団創立について

 投稿者:八重樫(S51)メール  投稿日:2010年 4月30日(金)00時24分33秒
  超亀レスですが...
昭和53年に毎日新聞が岩手県版に盛岡一高について連載した記事を本にした「あゝ青春(盛岡第一高等学校 白堊外史として)」に、応援団結成について書いてあります。
それによると、盛岡中学応援団創立は大正11年5月で、初代応援団長は平井啓二氏、副団長が衆院議員をされた北山愛郎氏で、結成のいきさつについての北山愛郎氏の話も載っています。
平井啓二氏は、盛岡で歯科医を開業しましたが、夏の高校野球は休診にして球場に応援に駆けつけていたそうです。

http://homepage2.nifty.com/yaedon/

 

謹賀新年

 投稿者:白堊応援團 30 星  投稿日:2010年 1月 1日(金)22時30分56秒
   さてさて、今年こそは願いつ30有余年、待ちくたびれた感有り。干支の白堊の虎もトップページで吠えまくっている。

http://www10.ocn.ne.jp/~hakuaoen/

 

有難うございます

 投稿者:中京元応援団長  投稿日:2009年11月22日(日)19時36分49秒
  福陵博物館@管理人 様
盛岡中学応援団に関してはどうやら大正10年のようですね。
さらに福岡中学応援団が大正12年設立であることも知り感謝いたします。

福岡中学につきましてはヤフー検索で昭和3年の選抜辞退のいきさつを知り、
その「いさぎよさ」に感服いたしました。
中京大中京(中京商業)が初めて甲子園出場を果たすのはその3年後でした
 

盛岡中学応援団について

 投稿者:福陵博物館@管理人  投稿日:2009年11月20日(金)13時36分48秒
  ご無沙汰しております。
盛岡中学応援団に関しての情報です。

福岡中学応援団設立の調査をしていた際に、大正13年度の福中応援団を努められた方から聞いた話です。

「大正11年夏のことだったと思うが、前年に盛岡中学で応援団というものが作られたという話を聞き、ならば福中でも作ってやるということになり5年生を中心に北斗会(相馬大作の信望者団体)のメンバーが学校に掛け合った。次年度には学校当局から公認された」

大正12年の「賀陽宮殿下」が盛岡で野球台覧後、宮様が「岩手ではこのような応援をどの学校でも行っているのか」との問い合わせを県の担当者にしたところ、県から福中にも問い合わせがあり、急遽応援団組織の公認を行ったと言うことです。

参考になれば幸いです。
 

早速のご返事ありがとうございます

 投稿者:白堊博物館長 星  投稿日:2009年11月13日(金)16時47分40秒
   東北から、東海の地、関西、九州とつとに名を馳せてはいますが、世の中は21世紀
かっては「生きた化石」と新聞に報じられた「バンカラ應援團」は、何時まで続くの
でしょうか。我々の頃(昭和30年代あたりまで)は「應援委員」として生徒会の活動
でしたが今は部活動として位置付けられているようで、昔のようなものではないとい
う疑問が当時の應援委員たちに生じているようです。
 さて何処に向かっていくのでしょうか?
 

有難うございます

 投稿者:中京元応援団長  投稿日:2009年11月12日(木)18時25分29秒
  白堊博物館長 星 様
お答えいただき有難うございます。
大正12年といえば我が校の創立の年。その前からの歴史とは心より尊敬いたします。
貴校のバンカラは東海の地にも鳴り響いています。
白堊応援団のますますのご活躍を祈っております。
 

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